『地図から消された村』杉沢村の正体と真相を徹底追及

地図から消された村の中で、犬鳴村と肩を並べて有名なのが、『杉沢村』ではないでしょうか。

『杉沢村都市伝説』という映画もあるほどです。

この記事では、杉沢村伝説の真相に迫っていきたいと思います。

目次

杉沢村はどこにある?

青森県にかつて存在したとされている村で、昭和初期まで存在していたと言われている。

しかしながら、どの地図にも公文書にも載っていない村である。

【杉沢村伝説】とは

杉沢村伝説の概要

杉沢村伝説

かつて青森県の山中に、杉沢村という村があった。昭和の初期、「一人の村人が突然発狂し、村民全員を殺して自らも命を絶った」という事件が起きた。誰もいなくなった村は、隣村に編入されて廃村となり、地図や県の公式文書から消去された。しかし、その廃墟は悪霊の棲み家となって現在も存在するという。

この杉沢村伝説を検証するため、各メディアが取り上げたことで一躍有名となった。

番組では杉沢村を探す特集が組まれ、「村への道筋を示すキーワード」とされるものが各種メディアで伝えられた。諸説あるが、概ね次のようなものである。

  • 村へ向かう道路に「ここから先へ立ち入る者 命の保証はない」と書かれた看板がある。
  • 村の入口に朽ちた鳥居があり、その根元にドクロのような石(もしくは岩)がある。
  • 奥へ進んでゆくと廃墟と化したかつての住居があり、その内部では事件の惨劇を物語る血痕のようなものが多数見受けられる。

奇跡体験アンビリバボーにて、杉沢村特集が組まれる

各メディアが杉沢村を取り上げていた中でも最も有名なのが、2000年に放映された『奇跡体験アンビリバボー』ではないだろうか。

この放送では、『地図から消えた悪霊村 決死の潜入スペシャル』と題して杉沢村を探す企画を3回にわたって調査する内容であった。

放送では、ドライブ途中に杉沢村を見つけた若者の経験談を紹介し、検証するという内容だったが、残念ながら杉沢村を見つけることができなかった。

番組では、杉沢村は次元のはざまにあって現れたり消えたりするという結論で締めくくることとなった。

青森県の地方紙にて取り上げられる

2000年に『東奥日報』という青森県の地方紙に以下のように取り上げられている。

『東奥日報』

「青森市郊外のある場所が今、インターネットなどで大変な話題になっている。村人全員が惨殺され、足を踏み入れるとたたりがある-などという情報が電子掲示板などをにぎわせているのだが、集落が消えたのは単に過疎が原因。同市内に数十年前からあったうわさに、次第に尾ひれが付き、インターネット上で一気に傍聴したというのが真相のよう。いわば、電脳社会が生んだ「バーチャル怪談」といえそうだ。」

地方紙の内容によると、杉沢村と呼ばれた場所は以前あったが、過疎が原因で集落が消えたと報じている。

そのため、悲惨な事件があったわけでは無く、過疎により集落が消えた後、地元の人のうわさがどんどん大きくなっていったのではないだろうか。

【杉沢村伝説】の由来となった事件

ではなぜ杉沢村伝説が出来たのだろうか。

それには、以下の2つの事件がかかわっているのではないかとされている。

青森県新和村一家7人殺害事件

「青森県新和村一家7人殺害事件」とは、1953年(昭和28年)12月12日、青森県中津軽郡新和村(現:弘前市大字小友字宇田野496番地)にある水木家内で発生した大量殺人事件である。

事件を起こした加害者の水木家三男のM(当時24歳)は、被害者である父親の水木福三郎や長兄達から激しく疎まれており、実家を追われて極貧生活を送っていた。

Mは足りなくなった味噌を盗むために実家に忍び込んだところ、猟銃をそこで発見した。その時、父親たちに殺されると被害妄想にとらわれ、『殺される前に殺そう』と思い、一家7人を射殺した

その後、現場となったMの実家は原因不明の火災によって全焼し、子供1人が焼死したため、『8人殺し事件』と称されることもある。

Mは殺人罪・尊属殺人罪・住居侵入罪で起訴されたものの、心神喪失状態だったことから刑事責任に問えないとして、殺人・尊属殺人は無罪、住居侵入罪のみ有罪とする判決が下された。

この集落では本事件後、1954年(昭和29年)から1956年にかけ、農家の素行不良者が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した。

その後釈放されたMは、地元に残って次兄と一緒にリンゴ農園を営んでいたが、事件から48年後となる2001年12月に交通事故で亡くなった。

津山事件

1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件である。

犯人の都井 睦雄(とい むつお)は1917年3月5日、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市加茂町倉見)に生まれた。睦雄が2歳の時に父を、3歳の時に母を肺結核で亡くしたため、祖母に育てられた。

1937年5月22日(昭和12年)、睦雄は徴兵検査を受け、結核を理由に不合格となった。そのころから、それまで関係を持った女性たちに関係を拒絶されるようになる。そして、心ない風評に都井は不満を募らせていった。

同年、狩猟免許を取得して津山で2連発散弾銃を購入した。翌1938年(昭和13年)にはそれを神戸で下取りに出し、ブローニング製散弾銃を購入した。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、近隣の人間に不安を与えるようになった。睦雄はこのころから犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていた。

しかし、睦雄が祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられたために家宅捜索を受けた。猟銃一式のほか、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃所持許可も取り消された。

睦雄はこの一件により凶器類をすべて失ったが、知人を通じた猟銃や弾薬の購入、刀剣愛好家からの日本刀譲り受けなどによって再び凶器類を揃えた。

睦雄は事件の数日前から、自転車で隣町の加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど、犯行に向け周到な準備を進めていたことがのちの捜査で判明している。

1938年(昭和13年)5月20日午後5時ごろ、睦雄は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。

翌5月21日1時40分ごろ、睦雄は行動を開始する。近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。被害者たちの証言によると、この一連の犯行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされている。

最終的に死者30名(即死28名、重傷のち死亡2名)、重軽傷者3名の被害者が出た。死者のうち5名が16歳未満(最年少は5歳)である。

約1時間半に及ぶ犯行後、3.5km離れた仙の城と呼ばれていた荒坂峠の山頂にて、遺書を書いたあと、猟銃で自殺した。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見された。猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死したとみられている。

2つの事件が【杉沢村伝説】の元となった理由

杉沢村伝説は上記の2件の事件がもとになっているのではないかと言われている理由は以下の3点である。

①肉親殺人のタブー視

青森県新和村一家7人殺害事件と杉沢村伝説が紐づけられる理由として、ジャーナリストの石川清氏 は、「杉沢村伝説」成立の背景について以下のように語っている。

青森県新和村一家7人殺害事件のように、同じ集落で猟奇的な肉親殺人が相次いで発生したことが「呪われた村」を想起させ、事件の話題がタブーになったこともあって、「呪われた村」の漠然とした記憶だけが都市伝説として語り継がれるようになったのではないか。

肉親殺人であることから、集落の中でも事件の内容をしゃべることはタブーになっていたのかもしれない。誰も語らないという不気味さが、都市伝説となって語られたのではないだろうか。

②津山事件と青森県新和村一家7人殺害事件の混同

並木伸一郎氏は著書『最強の都市伝説』 にて、以下のように綴っている。

「杉沢村伝説」の内容が青森県新和村一家7人殺害事件や、津山事件と類似していることを挙げた上で、青森県新和村一家7人殺害事件はこの地方では稀に見る大量殺人事件であったことから、人々に津山事件を連想させ、やがてこの2つの事件が人々の意識の中で混同されたことで「青森県で起きた大量殺人事件=杉沢村伝説」の下地になったと考察している。

上記の考察のように、青森県新和村一家7人殺害事件が起きた際、猟奇的な事件として有名であった津山事件を連想し、時がたつにつれて事件が混同していったと考えられる。

③『杉』

青森県新和村一家7人殺害事件があった小友集落を訪れて、事件の取材を試みた斎藤充功氏 は、同集落の近隣に「杉」のつく集落が多かったことが、「杉沢村伝説」につながった旨を述べている。

まとめ

杉沢村伝説は都市伝説の中でもかなり有名ですよね。

オカルトブームの真っただ中で特集が組まれたり、時代背景もあってこのように有名になったのかもしれません。

過去に起きた、類似する事件と混同して『杉沢村伝説』が出来たのではないのか。というのが現在の結論となりました。

今後、杉沢村に迷い込んだという証言が出たら別ですが。。。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次