千日前デパート跡地は歴史的に忌み地だった。【千日デパート火災と南の大火の関連は?】

目次

千日デパート火災の概要

1972年5月13日22時27分ごろ、千日デパート3階ニチイ千日前店北東側フロアの布団売場付近より出火。火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると後に判明した。

火は瞬く間に上下階に燃え広がり、2階から4階までの範囲に延焼した。

火災発生当時、夜遅かったためほとんどの店舗が閉店しており、1~6階に人は残っていなかった。しかし、このビルの中で唯一営業していた7階のアルバイトサロン「チャイナサロン・プレイタウン(千土地観光経営)」には181人の客やホステス、従業員らが残っており、火災の通報を受けられずに逃げ遅れ、7階に取り残された。

その結果、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、救助袋の誤った使用方法によって脱出途中に地上へ落下するなどして死者118人、負傷者81人にもおよぶ人的被害を出すに至った。

火災後から言われるようになった怪談

体験談①

閉店後、店舗に残り作業をしてると、『火災発生…火災発生…』という館内放送が流れる。驚いたアルバイト店員が先輩に尋ねると、夜、決まった時間になると館内放送が流れるというのです。その内容は泣き声や助けを求める声など様々で流れる時間というのは、あの火災が起きた時間だったそうです。

体験談②

あるアルバイト店員とその店長が、仕事が長引き閉店時間を大きく上回った日のことです。

疲れ切った二人が帰ろうと従業員エレベーターに向かうのですが、いつもならそこにあるはずのエレベーターにたどり着けない。同じ階の人たちに聞いて回り、アルバイト店員がいつものエレベーターを見つけた時には店長の姿が見当たりませんでした。おかしいなと思いつつも帰宅した翌日、心配になって職場に電話をすると店長が行方不明になっていたそうです。

思い返すと、なぜあれだけ遅くなった時間に聞いて回れるくらい人がいたのか、あの人たちは一体誰だったのか、店長は一体どこへ行ってしまったのか、すべてわからないままだそうです。

体験談③

8階のお店で働いていた人の話です。

そのお店は夜遅くまで営業しており、仕事が終わる頃には他の階の店は閉店しているそうです。スタッフ達が閉店後エレベーターで1階まで降りようとすると、誰もいないはずの階でエレベーターが急に止まりました。でも、ドアは開きません。するとドアの向こう、遠くの方から「たすけてぇ~~たすけてぇぇ~!」という叫び声が聞こえるのです。

スタッフたちがみな恐怖で凍り付いているとその声はどんどん近づいてきて、ドアの目の前で「たすけてぇぇぇ~~!!」と聞こえた瞬間、エレベーターは再び動き出し、どうにか1階にたどり着くことができたそうです。

出典:全国怪奇現象ファイル

千日デパートの土地の歴史

江戸時代までさかのぼり、千日デパートが建っていた場所がどのような遍歴をたどっているか見てみます。

千日デパートに隣接する土地ですが、江戸時代は千日前刑場で、約75万人の処刑を行ったのではないかと推測されています。

明治3年に廃止されるまで255年間も、大阪で唯一の刑場として使用され続けました。

その後大正初期の1912年1月16日にこの地区一帯が火事となります。この火事は後に南の大火と呼ばれ、死者4名・消失戸数5200戸となりました。

火災から2年後の1914年、街が廃れないようにと楽天地と呼ばれる、大阪を代表する劇場・演芸場・レジャー施設を建設しました。地上3階建てで、夜はイルミネーションで彩られており、一躍市内のハイカラな名所となったようです。

楽天地は1930年まで経営を続けましたが、デパートなどさらに新しい名所に押され、閉鎖しました。

その跡地には1932年には松竹経営で7階建て、3000名弱収容の南欧風近代建築【大阪歌舞伎座】が誕生しました。

まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っており、「上方歌舞伎の殿堂」と呼ぶに相応しい劇場でした。

しかし、関西歌舞伎が衰退し維持が困難になった点、観劇人口に対して大きすぎる劇場であった等の理由で閉鎖し、難波に新歌舞伎座として移転しました。

この歌舞伎座は、1958年4月に閉業し、建物を商業施設に改装する工事が始まりました。

改装後に誕生したのが千日デパートで、個人店舗が数多く出店して専門店街を形成し、そのほかに劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊技場、キャバレーなどがテナントとして入居していました。

開業から14年ほど経過し、千日デパートの火災が発生することとなります。

火災後の1981年4月には解体工事が完了し、1983年9月、千日デパート跡地に新ビル「プランタンなんば」が竣工しました。

プランタンなんばでは、怪奇現象が多く起こったため、運営側は「スタッフ一斉退社」や「スタッフにお守りと数珠を身に着けさせる」「閉店後にお経を流す」などの対策を講じたそうです。

しかし、そのような対策を講じたにもかかわらずシャッターを強く叩く音や行方不明者が相次ぐなどの怪奇現象がやむことはありませんでした。

そして、2000年に閉館となりました。

現在はビックカメラなんば店として営業しています。

ビックカメラの通用口には火災の被害者のための祠が建てられていますが、ここまでの策を講じたにもかかわらず幽霊の目撃例はいまだに多々あるそうです。

まとめ

千日デパート付近一帯は、もともと処刑場だったことが分かりました。また、千日前通りは、刑場から焼き場へ運ぶ道だったと言われています。

その後、土地の用途が変わっても、2度にわたり火事が起こり、未だ成仏されていない霊が漂っているようです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次